オードリー若林のエッセイを読んだ。
『LIGHT HOUSE』に始まり、『だが、情熱はある』を視聴してついに、エッセイまでたどり着いた。
過去記事は下記。
何かを学ぶには無批判にすべてを真似することから始まる。
by.岡田斗司夫
今は若林の歩みを知ることが、自分の未来を考えることに繋がると感じている。
まずは無批判に受け入れてみる、知ってみる。
若林が4年にわたって書き溜めたエッセイを読んだ気付き学びをまとめる。
社会とは何か
ずっと社会に馴染めず、30歳で社会に出た若林。
30歳で社会人大学に通い始め、“社会”というものを理解しようとする様、その葛藤が記されたエッセイだった。
遅咲きの若林なりに“社会”を表した印象的な言葉があった。
若林の好きな著者、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に社会の象徴のような巨大な鳥が出てくる。
その巨大な鳥が自分の前に立ち塞がった時、
巨大な鳥に勝てないほどの実力や情熱なら、まず巨大な鳥の機嫌を伺ってみろ。
社会とはそういう場所。
人によって巨大な鳥に何を当て嵌めるかは変わってくるだろうが、“社会”に出ると必ず巨大な鳥が存在する。
その巨大な鳥にどう対するか。
若林はまずは機嫌を伺え、と言う。
今の自分では勝てないことを察し、その場を表面上はやり過ごす。
その時の感情や自分の心中を忘れず、理解し、深掘りして力をつけていく。
人一倍、生き辛さを知る若林の言葉だからこそ、素直に受け入れられた。
人生とは何か
ジェットコースター
人生はジェットコースターのようなもの。
わざわざ怖い思いをするために長時間並ぶ
→ 絶叫しながら乗る
→ 二度と乗りたくないと思う
→ でも、充実感がある
→ また、次のジェットコースターに並ぶ
怖いという感情があるから、充実感がある。
充実感があるから、もう一度経験したくなる。
だからこそ長い時間をかけて並ぶし、怖い状況に身を置く。
人は時に理屈じゃ語れない行動をとる。
そういうものにこそ本当が隠されているのかもしれない。
黒ひげ危機一発
人生を黒ひげ危機一発で例えてみる。
他人の樽からおっさんがバンバン飛んでいるのを横目に、剣をとにかく刺しまくる若林。(アフロ、モヒカン、アメフトショートコント etc...)
ゲームを始める段階は穴だらけ。
けれど、剣を刺していくことで穴の数は減っていく。
何かをしても何も起こらなかった時、おっさんが飛ぶ可能性は上がっている。
失敗ではなくて、成功のための失敗潰し。
いつ飛ぶかは誰にも分からないし、行動をして何も起こらないとしんどいけれど、確実に穴は減っていく。
剣を刺し続けた人だけが、飛んだおっさんの身体を拝める。
自分の落とし穴
人は自分で気付かないと意味がない。という話をしよう。
「この先に落とし穴があるよ」と言われても
「それはあなたの道でしょ」と気に留めず、
自分が落ちてから「あ、あの人の言う通りだった」と気付く。
天才は我見が強くても自分でスタイルを貫いて結果を出すが、
若林は我見からスタートして通念に着地する。
結果的にみんなの言う通りではあったが、そんな世界は面白くもなんともない。と言い放つ。
言われたことを言われた通りにやる人生は失敗がないけれど、味もしない。
無難な正解に従って生きるより、それに抗って自分なりの不正解を探したい。
自己内省
趣味を手にする
趣味は探すものではなく、自然とそうなるもの。
いきなり趣味になるわけではなく、
好き→ハマる→趣味
この過程を経て趣味になる。
まずは自分の好きを認識して追求すること。
何が好きか分からないのであれば、何でもやってみること。
その先に没頭できる趣味が見つかる。ことがある。
性格は形状記憶
これらに触れたあとの数日は、意識しているからその形になる。
けれど、日常に晒され続けると、だんだんと忘れていき、元の自分に戻る。
性格は形状記憶合金のようなもので、元々の形は変わらない。
ではどうするか。
「幸せになる方法」「なりたい自分になる方法」
こういったものに触れて、それをそのまま実践するのではなく、自分に落とし込む。
「性格は形状記憶合金」という前提の下、これらに触れて、自分を知る。
正解ではなく、一意見として取り入れる。
学んで、自分色にアレンジして人に説明できるまで。
それぐらいの“自分ごと感”が必要。
大丈夫と言うことから
本当に大丈夫かどうかは関係ない。
方法も分析も考察も後回し。
大丈夫と言うことから大丈夫は始まる。
ディヴ~分人~
恋人といる時の自分、職場の自分、家族といるとき…。
自分の中には様々な自分がいて、それらをディヴ(分人)と呼ぶ。
誰でも、どんな環境でも自分に嘘をつかず“自分は自分”でいる、という人を「子ども」と表現していた。
ディヴはすべて本当の自分で、嘘でも無理をしているでもない。
自分の中の増えていくディヴを可愛がってあげて、集結して床に就く。
これが腑に落ちた時、いい夢が見れそうだなと、思った。
俯瞰を忘れてしまう程の没頭
楽しい気持ちは内側からやってくる。
常にどこか俯瞰の目線の若林。かくいう私も俯瞰人間。バランサーだ。
そんな自分を俯瞰で見ていない時が真の楽しいであると結論。
今しか、直近の次しか、考えていないほど没頭している時が真の幸せ。
常に俯瞰で物事を見てしまう私だから没頭のハードルは高いかもしれないけれど、だからこそ没頭の深度も深いと信じている。
成長のために
わからないことにこだわる
わからないことを受け入れるか、突き詰めるか。
わからないことに拘らない人は1から100はできるけれど、0から1は作れない。
フォーマットをなぞることはできても、発明はできない。
人から言われた常識、世間の当たり前、誰が決めたか分からない世界のルールに抗い続ける事、一人になってもこだわり続ける事。
何かを作りたいならば、何者かになりたいならば、必要な過程なのかもしれない。
人生突っ込まれてナンボ
野次馬。
自分は何もせず他人のすることに批評、批判する人が増えた。
と、私も思っていたが、自分にもその一面があることに気付かされた。
ハロウィンや、クリスマスなどのイベントに群がる人を憐みの目で見ていた。
笑われたくないから、ツッコまれてダサい自分になりたくないから、出る杭を拒み続けて斜に構える。
違う。
この行動は自分の幅、可能性を狭めているかもしれない。
憐れむも飛び込むも自分の自由だが、ツッコまれればツッコまれる程、人生は面白くなるのかもしれない。
笑われるってすごいこと、存在が価値になる。
本は杖でありビート板。
本一冊で人格が変わるほど甘くない。
本は、本気で何かをしたい人には杖やビート板の役割をする。
けれど、本だけの力で人間を変えることはできない。
杖だけで歩けないし、ビート板だけでは進めない。
結局、本人の意思ありきなのである。
本を読んで行動に移さなければ、泳がないのにビート板を持っているようなもの。
何の意味も成さない。
逆に邪魔。ゴミになる。
足掻いた先の光
試合に負けることが分かりきった選手に残されたのは足掻くことのみ。
試合に勝つためではなく、生き様の表現。
それがダサくても、笑われるとしても、足掻いた人にのみ次に繋がる挑戦が約束されているはず。
どんなに苦しい時でも譲れない“生き様”を見つけたい。
20代はそれを探す旅の渦中なのかもしれない。